彼岸花 higannbana

2013年10月01日

10月に入ったが?

2013/10/01 17:34
愛知川彼岸花
   

      東近江市・愛知川縁の彼岸花



 今日から10月だ、青空がじつにいい。どんな悩みさえも吹き飛ばしてくれそうな青空だ。秋風がさわやかに、体をすり抜けていく、心さえも洗われそうだ。くだらぬことに、しょげかえっているいる自分が馬鹿らしく思えてくる。四季折々に繰り返される自然の復元力と言うのだろうか、彼岸花を見ていると、実に気持ちがいい。 

 今朝方より、八十八歳の母の具合が悪くなった、前日の親戚の葬儀参列、寺の親鸞聖人七百五十回大遠忌法要の準備などからくる精神的疲労と、7月、8月と続いた畑仕事の無理がたたった肉体的疲労の蓄積が、一気に骨粗鬆症の悪化を招いたようだ。圧迫骨折で、背骨も何本かつぶれている、こんな体でも、家族においしい野菜を食べさせたいという親心が、母親を畑仕事に駆り立てていたようだ。健康づくりの意味もあったのだろうが、今となっては、母の安静を願うのみだ。

 今日は、地元の東近江市の社会福祉協議会から借りた車いすが、実に役立った。わずかな費用で借りられる、福祉社会の恩恵を痛感する。膝のくるぶしや腰など、痛みがひどくなり、安土の広田外科医院で、レントゲン撮影の後、注射を腰や膝などのしてもらって、帰宅した。

 帰宅後、昼食の後、少し痛みがましになったと言ってくれ、少し家族として、心が安まった。

家族とは、やはり、いがみ合うものではないようだ、家族はお互いに励まし合ってこそ、家族なのだと痛感する。

 そういってる我が身も、六十一歳の初期高齢者だ、家族の医療機関への搬送は、車がなくては成り立たない。今は感謝こそされているが、そういう自分が90歳近くになったとき、子がそんな対応をしてくれるだろうか、おそらく無理ではあるまいか。母の老いゆく姿に自分を、つい重ねてしまう。

 なんじゃかんじゃと言っても、両親は健在なのだが、先行きがどうしても不安になりがちになるのは否めない現実だ。父も、腰が痛いといいながら、天気が良ければ、畑の水やりだ。これも困ったもので、「こちらがするよ」と言っても、やはり朝早くから畑に出かけてしまう。人の生き甲斐は、また家族でも奪えぬものだとも思ったりする。

 こうした家族の負担を減らすため、3か所の畑の水やりの負担を解消するため、畑の各所に水タンクを置いた。水の散布も、じょろでは負担なため、タンクの他、ペットボトルの空き瓶に水を入れ対応するようにしている。来年は畑仕事の一切が、回ってくるのだろう。だが、耕す場所は、自らの体力を考えると、減らさざるを得ないだろう。

 父も86歳の高齢だが、畑仕事は限界のようだが、寺の用務には至って元気だ、布教活動も往時の勢い程は、依頼が少ないが、依頼があればオートバイで、滋賀の各地に出かけていく元気はある。畑仕事の中で腰は痛いと言っても、人前に立つと腰がピンとして、延々と立ち姿で1時間、2時間と、人の前で講演活動を行う。不思議と化け物のような「体力」は、未だに健在だ。

 元気な時と、元気でない時の落差の違いに、唖然とするときもあるが、やはり、一弱気高齢者の部類と言っている。人間とは、一見、矛盾しそうで、矛盾をしない混然とした「概念」をもつ生き物ではないかと思うときがある。人の生き様は、他人から見なければ、わからぬようだ。自分で自分のやってることの非合理性、矛盾性には、最後まで気がつきながらも、気がつけぬ存在なのかも知れない。・・・こんなことを考えてしまう。

 

 診察の帰り、母を車に乗せ、その帰りに愛知川の堤防近くを迂回して、帰宅した。鮮やかな紅い色の彼岸花が、実にきれいだと言っていた。出来れば、来年も家族でそろって、この彼岸花を眺めたいものだ、だがそれは、分かり切ったことだが寿命にゆだねるしかない。やはり、家族の願いは、揃って元気で過ごせるのが一番だ。老父、老母の元気を願い今日は、原稿を閉じるとしよう。



※10月の10日過ぎぐらいまでは、愛知川の彼岸花も、鮮やかな姿が見られるのでは。撮影される方は、お早めに。ただし、地元の貴重な景観ですから、花などをおらないようマナーを守りましょう。蝶々がよく飛んでおり、シャッターチャンスに絶景の場所といえます。隣の川南町の堤防に咲く彼岸花も、絶景です。
  


Posted by よっくん at 20:49Comments(1)